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表紙 > 浜田きよ子プロフィール > 活動事例報告 2011年10月仙台訪問

2011年10月、仙台訪問

東北大震災以降、むつき庵では、全国の有縁の方々からの募金をお預かりし、被災地へお渡ししてきました。(むつき庵の募金活動はコチラ→

オムツフィッター各氏と支援の在り方を考え、現地で支援活動に尽力されている方を支援する。というひとつの形が見えてきました。

大規模な募金活動は展開しにくくても、細く長く、支援し続けていきたいと願っています。

2011年10月には、1週間にわたって、被災地仙台を訪問することができました。同行していただいたのは、オムツフィッターボランティアリーダーの小林貴代さん、堺谷珠乃さん、東北各地から参集していただいたオムツフィッターボランティア有志、株式会社アドヴァンシングの社長・基利枝子さん、古賀惇一さん。多くの方々とともに出来ることをお手伝いしようという趣旨でした。

 

成田の里で職員さん達と座談会を実施

 

石巻市では、ユニットケアの提唱者・武田和典さんとも語りあい、また、介護施設・成田の里(黒川郡)では、石巻港すぐ近くのグループ内施設で被災した職員さんたちとの座談会やはいせつケア相談会を実施できました。

成田の里と赤井の里の位置
成田の里と赤井の里の位置
成田の里での排泄ケア講習会
成田の里ではいせつケア講習会を開催できた
成田の里で座談会
成田の里で座談会を開催した。写真左から、浅野施設長、浜田、竹山さん、桜井さん、前田さん、今野さん
成田の里での排泄ケア講習会
自分たちが着用してみて、紙おむつの当て方を学ぶ
成田の里での排泄ケア講習会
正しい紙おむつの当て方も考えてみる
成田の里の床は転んでも骨折しにくい
成田の里は板張りで、転んでも骨折しにくい

 

座談会から抜粋

浜田 3月11日、私たちは東京にいました。モノすごく大きな揺れを感じて、それが東北の地震だったことを知ったのはその日の夕方でした。その数日後、3月19日、20日に「はいせつケア実践報告会」という大きなイベントをすることになっていました。悩む中で、できれば、被災した方々を支援している人を長く支援できたら良いなと大勢が集まって決めました。

そして、多いとは言えないが、基金を集めました。いつ何を実行するかと考えたが、直後は人の身体で言えば救命救急に当たり、医師や看護師の出番。少し落ち着いたころは、それを支援している方々がどんなことに困っているのか、自分たちに何ができるのかが見えてくる。

そんな感じで私たちは関わりを持たせていただきたいと決めました。

今日はオムツフィッターボランティアリーダーの小林貴代さんがおられます。今週末の研修当日は大阪、青森などから何人ものボランティアが来られます。

友人である、もともとは福島県須賀川市の方で、日本の介護の基礎となったユニットケアを作った武田和典さんという伝説のような施設長がいます。彼がシオンの里を作ったころから親しくて、彼は今、岡山県のきのこ老人保健施設の施設長だが、実は、彼は、震災後はずっと南三陸町の志津川などに貼りついていて、ボランティアではなく自助。互いに補助し合うことを実践しています。

公助、共助をどうやれば実践できるのか。社会福祉法人が国からたくさんのお金を預かりながら運営しているからこそ被災地に還元できることをやらないといけないのだと、被災地にいる。家族は福島にいる。子どもさんだけ安全な場所にいるが、20日には馬場中山などを回る。まずは感じさせてもらい、我々が学ばせて頂く。そんな想いで宮城に来たのです。

 

今日、冒頭、3月11日に被災された方々にお話しを聞きたいと思いました。なぜかというと、その時にどんなことがあって、どんなことをしたのかというのは、個人の体験で終わらずに共有して、今後また何かの際には自分たちの力にすることが大事だと思っていました。

また、先日、小林さんが関わっておられるALSという難病の方々が震災をどう生き延びたかという大きな集いが京都で開催され、それにも参加させていただいたのです。

電源が切れたら呼吸器が止まる。じゃあどうするのだ?というような学びがあった。ですから、個人の体験ではない。私たちはどんなことができるのかと考えたい。

それは、こちら、皆さんの問題ではなくて、我々の問題でもあります。

成田の里を運営する東松島福祉会は東松島に施設・やもと赤井の里がある。そこで被災された職員さん達にも今日、お越しいただいています。そういった体験をざっくばらんに話したいと思います。

 

石巻港のすぐ北にある「赤井の里」で被災した

 

竹山さん わたしは介護職です。私は当日夜勤で遅かったので自宅にいました。自宅は東松島のやもと。施設から車で5分ほどの近い距離に住んでいます。揺れている最中は、「宮城県沖」がやっと来たなと思っていた。最近、ずっと、「来るぞ、来るぞ」という話だったので、ようやく来たかと思っていた。

そして、津波が来ると思っていた。でも、あそこまで大きな津波だとは思いもよらなかった。

自宅と海は離れているので、家までは来ないと思った。だから、自分の命優先で家から出た。揺れがすごかった。

 

浜田 東京でも凄かったです。

 

竹山さん 家が壊れると思った。だから家から出て、何もないところに逃げたんです。

 

浜田 では次の方、同じように自己紹介をしながらお話し下さい。

 

桜井さん 同じく東松島の桜井です。

 

浜田 その時はどんな感じでした?

 

桜井さん 自分は自宅にいた。地震が来て、その時、家族は誰もいなかった。すぐに施設に連絡をとりたいと思っていたが、犬も飼っており家を離れることができなかった。室内犬で、ヒイヒイと過呼吸になった。

 

浜田 動物って地震前から様子が変わっていましたか?

 

桜井さん 普通でした。施設も心配で、落ちついたら行ってみようと思った。

 

浜田 次の方、同じようにお願いします。

 

前田さん 同じく介護職員をしています。当時はまだ介護の仕事はしていなかったのです。魚の加工屋さんで働いていました。職場は海から15メートル程度の距離しかありませんでした。

 

浜田 どんな感じでした?

 

前田さん 最初は機械類が全部揺れて、まな板の上に包丁がどんどん落ちてきて、自分はまな板の下に隠れていたので、包丁がどんどん落ちてきて怖かった。

 

浜田 津波の時は?

 

前田さん 津波が来るぞという話しが出て、急いで車に乗った。でも、加工屋さんの社員さんたちが皆、車で逃げたので渋滞です。自宅が石巻市。加工屋さんから近いが海からは遠い。家族が心配なので急いだ。それから40分後、自宅前にまで水がたまりはじめたんです。

 

浜田 ご自宅の高さは?

 

前田さん 基礎が高く、水は床上50センチくらいでとまった。それでもまわりは車でグチャグチャになった。

 

浜田 次の方も同じようにお願いします。

 

今野さん 同じく介護職です。当日は私、竹山さんと同じく夜勤だったので自宅にいました。会社から歩いて15分くらいの場所です。うちの目の前に用水路が流れており、すぐ近くの堤防が決壊したようで、30分程度で水が来た。逃げるに逃げられない状態。少し水が引いた時に逃げて、会社の方にも電話したがつながらなかった。一度だけ、当時のリーダーのところにつながった。そのあとすぐに切れた。情報はないし水があって行くに行けない。

 

浜田 施設長さんは赤井の里にいたのですか?

 

浅野さん そうです。成田の里の開設準備で赤井の里にいた。今日も参加している、千石、北川、浅野、佐藤がいた。人が溢れかえる状態の中で、スタッフはいる人でなんとかしないといけない。モノすごかった。

 

浜田 でも、翌日から出勤は難しかったはず。

 

竹山さん 施設に行くまでに川があり、橋があった。そこが通れなくなった。赤井地区そのものに入れなくなったので、その当日の夜に行こうと思って自宅を出たが、すでに田んぼも海の状態で行けませんと、警察、消防の方に止められた。トラックの運転手さんからも来るなと言われた。そう言った方々が交通規制をしていました。

 

閉じ込められた3日間のこと

 

浅野さん 水が引かなかったのは2、3日。

 

竹山さん 私はやっと3日目で施設に到着できた。

 

浜田 そうなると施設の中にいた職員さんも、帰れない状況だった。

 

浅野さん ああもう帰れません。

 

浜田 その職員さんの人数で大勢の人たちをなんとかする。その時の様子はどうでした?

 

浅野さん 施設には、食料の備蓄は3日分ある。しかしそれは地域の方々が入ってきたことによって足りなくなった。本当は朝昼晩と提供できれば良かったが、朝晩だけだった。おにぎりとちょっとした汁物程度で3日ほど。

 

浜田 そこにいる介護士は、交代要員がいないでしょう。各自休息はどうやって?

 

竹山さん 聞いた話では2、3日は泊まり込みで、交代はない。余震も続くし、停電している。ちゃんと休憩時間をとりましょうとなったのは私が到着した3日目以降。順番でやっていこうという形になったのです。

 

浜田 でも、職員さん自身の寝るところは?

 

浅野さん ひと部屋作って、雑魚寝をした。

 

浜田 住民の方々が避難してきたことによって施設内の人口は膨れ上がったわけだが、いつくらいから出て行かれるようになったのですか。

 

竹山さん 一週間くらいで家族が迎えにきはじめました。

 

浅野さん 赤井の里はもともと、避難所に指定されていたのではないんです。指定になった避難所に戻れるというメドがたった時点で、そちらに移ってくださいということになったのです。

 

浜田 一週間くらい経って日常が見えた感じですか?

 

浅野さん 日常とは言えなかったです。1階は汚泥だらけでまったく使えないので、二階だけだった。密集して衛生的にも非常に悪かった。

 

浜田 介護度の重い人もあったでしょう。そのような状態が続くとADLが落ちたり、皮膚疾患が発症したりとかはありました?

 

竹山さん 褥瘡が悪化したことはありましたね。あとはおむつ交換の回数も当然減る。夜間に電気がついたのはいつでしたっけ?

 

浅野さん しばらくは電気もガス水道も止まった。最初に復旧したのは電気。普通に電線からひいて復旧したのではなく、中部電力さんが高圧電源の車で来た。施設内の電気をすべて賄えるだけの電力はないので、二階だけを付けてもらった。その時の明かりのうれしさたるや。あの時は皆で拍手して盛り上がったんですよ。

 

竹山さん おむつ交換は、まず、時期的に、暗くなるのが早い時期だったこともあり、まず暗くなる前に大きめのパッドに交換しておく。それで夜間の交換は、懐中電灯で照らしながら行った。電気がつくようになると、限られた点灯時間の中で一斉に行うので、寝ないようにして実施した。

 

浅野さん 中部電力さんが来るまでは自家発電。でも5時間程度しか持たない。燃料も少ない。だから、30分だけ、おむつ交換の時間だけ発電機を回していました。

 

竹山さん お湯がなかったので冷たい水で濡れタオルを作り、すぐに入れる準備をした。電気がつく前に職員は居室配置で、電気がつくと一斉におむつ交換。

 

浅野さん 半年前のことなのに何かかなり前の出来事のような。

 

認知症の方も、状況を分かっていた

 

浜田 その時の利用者さんの反応は?いろいろあったでしょうが。例えば介護度が軽い人が職員さんの代わりをするとか、そんなことはなかったですか?

 

浅野さん 皆、有事だということは理解していた。

 

竹山さん 認知症の方は、今なぜこんなところにいるのかという人はいたが、でも大変なことは分かっていた。

 

浜田 では、徘徊する人もそこにおちついていたとか?

 

竹山さん 二階だけで徘徊。下には行かない。だから分かっているのだろうと思った。

 

浜田 利用者をみてどうでした?

 

桜井さん 自分たちは仕事というよりも一緒に生きているという感じ。とりあえずもう、サービス云々ではなく、落ちつくまで一緒に頑張ろうという感じだった。たぶん、仕事に必死だったのではなく、生きていることに必死だった。

 

浅野さん 仕事だとは思えなかった。生きるためにはどうするのかということ。

 

前田さん 私は皆さんと違って、当時は介護職ではなかった。小学校に1週間避難していたが不安だった。5カ月の赤ちゃんがいたので、おむつなど必需品だった。が、少しずつでも分けてもらえたので、そこにいた。

 

浜田 奥さんも大変だったでしょう。周りの方は?

 

前田さん 丁度笑い始める時期だったので、周りの避難している人からも癒されたと、おっしゃっていただいた。

 

今野さん 施設に到着したのは震災後3日目。施設の前はまだ水が引いていない。他のところは引いているところもあったが、職場の近くは膝が隠れるまでの水がありました。行ったら行ったで泥だらけだし。

 

浜田 今後に備えて、何かこんなことを考えたとか、気がついたことがあれば教えていただきたい。

 

竹山さん 人とのつながり。

 

浅野さん ああそうだ。そうだ。

 

竹山さん 無力さの中でも生きていくためには人とのつながり。職員も何週間後かに帰りはじめた。自宅に帰った時にも怖いし、家の中にいても、情報も物資も来ない。具体的に言えば、給水車がどこに来るのかさえ、自分で聞きに行かないと分からない。与えられるものではなかった。そう状況で、隣近所との付き合いが芽生えてきました。 何カ月後かに赤井の里に避難していた人と出会ったんです。

「赤井の里で働いているんだよね?」と言われて、「あの時助かったよ。本当に助かったよ。受け入れてくれてありがとう。皆に有り難うと言って頂戴」と言われました。そういう人とのつながりを感じます。

 

浅野さん 赤井の里の1階の汚泥を除去するからとボランティアで来てくださった方々が何人か、二階で寝泊まりしていたのですが、いまだに草取りに来てくださる。

 

竹山さん 早朝にカーテンを開けると、その人たちが職員には言わずに、黙々と作業していただいている。

 

今野さん 尿量に気を付けたいが水がないので尿が濃くなった利用者さんも多いです。

 

浅野さん 水は給水タンクがあるが、節水のためにトイレには使わないでとか節約した。そのうちに意外に早く水はきましたね。また、水はなくなるのが早い。

 

浜田 水分摂取はしたいですね。

 

浅野さん はいせつはポータブルトイレを使った。

 

竹山さん トイレの中でポータブルトイレを使った。職員も利用者も関係なく、ポータブルトイレで排泄しました。汚物処理とか、水の大切さ、飲むだけではないです。

 

前田さん 私の場合は震災を機に介護職に転職しました。

 

浜田 震災がなければこの職にはついていなかった?

 

前田さん そうです。まったく考えていなかった。それもまた不思議な出遇いだと感じます。

 

浅野さん きれい事だけでなく、いろんな人間模様があった。ボランティアでも、帰る時にはボランティアに来られた人自身が有り難うございましたと礼をする人もいる。でも避難所でのトラブルもあった。
犬を連れてきた人と、周囲とのトラブルもあった。今、絆という文字がクローズアップされているが、一言で言うともうそれしかないのかなというところ。災害に立ち向かうのは人とのつながりだけなのかなと思う。

 

浜田 当時のことを含めて、学びたいと思って仙台に来たので、皆さんが話してくださるのがありがたい。どうもありがとうございました。

 

Fin.

 

浄土真宗本願寺派仙台別院で、浜田きよ子講演、オムツフィッター各氏によるはいせつ相談会、そして、同寺院の僧侶との対談、さらには本堂でのオムツのファッションショーと、展開することができました。

宮城県内だけでなく、福島県、青森県、岩手県など近隣各県からも参加していただきました。

 

本願寺仙台別院で桂正道さんと
本願寺仙台別院の僧侶・桂正道さんと対談
福島県、岩手県等からも来られた
宮城県下だけでなく、福島、岩手、青森からもお越しいただいた
千石愛さんの講演
成田の里の千石愛さんにも、震災当時の様子を語っていただいた。
小林貴代さん、堺谷珠乃さん
オムツフィッターボランティアリーダーの小林貴代さん(大阪)と、堺谷珠乃さん(神戸)によるはいせつケアの実践的な相談も好評だった
排泄ケアの相談会
はいせつケア相談会の様子
おむつのファッションショー
オムツのファッションショーを開催できた

本願寺仙台別院の僧侶 桂正道さんとの対談から一部抜粋。

浜田 こちらは震災時にボランティアの宿泊所や、救援物資の集積所になったと聞いています。

 

桂さん ではまず自己紹介から。今日はお越しいただきありがとうございます。私は7月1日から赴任しています。それまでは京都・西本願寺につとめておりました。震災時に何をしていたかというと京都におりました。会社で言うと仙台別院は仙台支社のようなものです。震災直後は電話もつながらなかったのです。京都に電話があり、東北地方を管轄している行政区域があり、そこで門徒さんの被災状況などの調査を始めました。

この敷地にある、あそか幼稚園が3月16日に閉園する予定でした。閉園式ができなかった翌17日にボランティアセンターができたのです。

物資も車で持ってきました。西本願寺は全国に1万300か寺あり、よく昔はセブンイレブンよりも西本願寺のお寺の方が多いというような比喩をしたものです。

活動は、閉園した幼稚園での寝泊まりから始まりました。私もそのころから来ています。当時は京都勤務でもあり2週間交代でやっていました。

今日までもやっているが、ボランティアは1500人くらいが参加し、のべでいうと7000人が寝泊まりしています。

震災当初は特に沿岸部に行きました。最初は大きな避難所にも行っていたが行ってみないと分からないことが当然あります。南三陸町に行くと、もっと奥に人がいるという話しになって、物資をさらに奥に運んだものでした。

そういう活動の中で、自宅避難や公的に管轄されていない避難所を中心に回るスタイルへと変わっていきました。この本堂が埋まるくらいの物資があったので、それをお届するという形。私ども僧侶も集まっていたので遺体安置所もまわり、おつとめしたり。そういう活動をしていました。3月からずっとそういう活動。沿岸部の社会福祉協議会が立ちあげたボランティアセンターをまわったり。また西本願寺関係の寺院や、近所で知り合った方がイチゴ農園をやっており、ひどい状況で気持ちも弱っているのでなんとかならないかと相談を受けたので伺ったりというような、小回りの効く活動をしていました。

6月くらいからでしょうか仮設住宅ができてきて、物資をお届するという活動はしていたが、そのころから仮設住宅を回るようになってきた。よく、仮設でお茶会をやると言って地域の方々、例えば名取市ゆりあげの方でもいろんなところに入っていく。

仮設住宅ができると、旧住民も仮設住宅入居者も、お互いに近所に誰がいるのか分からない状況なので、自治会長や社会福祉協議会と話しながらお茶会をする。そういう形をすすめています。

今、7カ所。月曜日の午後、火曜日の午前・午後、水曜日の午後、木曜日の午前・午後、金曜日の午後、これはもう決めて、必ずここに行くとしてやっている。今は名取市がほとんど。今後は南相馬まで行こうとしています。 震災当初からあちこち行くのが恒例です。大槌町、陸前高田から南相馬まであちこち行った。今後は仮設住宅でのお茶会を重点的に実施していきます。

特にそう言うところで聞かれる話は、安定的に来てもらえると有難い。毎週、決まった曜日、決まった時間に、この人が来る。という約束が心を開いていただけるのです。

仮設住宅は津波被害は2年。原発被害はもっと長い。そこを継続しコツコツと行こうと思っています。

 

定期的に訪問することの大切さと大変さ

 

浜田 7か所、ということは、毎週1回は必ず決まった場所で会えるということですね。

 

桂さん 今は土曜日だけ空いています。実はボランティアセンターはここともう一つ、岩手の花巻にもある。そこからもちょこちょこと行っている状況です。

 

浜田 おっしゃるように、安定的にキチンと訪問出来ることが、相手にも大事ですよね。正直、ボランティアさんにもいろんな意見を聞く。自分たちがどっと押し掛けて、その時はそれで良くても、押し掛けた人は去ってしまう。その大変さ。訪問する人も今後どれだけ続くか分からないのに受け入れるストレスもある。定期的にやるのは大事なことだろうと思いますね。

 

桂さん 難しいんです。

 

浜田 そうですよね。一方で、今でもボランティアセンターとしてボランティアを受け入れておられる。

 

桂さん 10月に入ってボランティアの人数は減りました。しかし多い時は一晩で80人くらいが、園舎や本堂裏の建物に寝泊まりしました。朝早くそれぞれの場所に行って、また夜に戻ってくる。

 

浜田 今、震災の話をお聞きしながら、おそらく震災時に私たちが改めて気付いたことは、高度経済成長の中で人はばらばらになって、まさに孤立している中でこんな震災が起きた。改めて人とのつながりが大事だと気付かされる。ご自身は、地域にあるお寺としてこんなことをやってみたい。出来たら良いなとか、そんなことをお聞かせください。

 

桂さん 私は7月に着任したので、それまでのことが実際どうだったのかは正確には分からない部分があります。多分、一般の方はお寺に入りにくいと思うんです。仙台別院の場合は幼稚園だったこともあり外から見ているだけではお寺かどうかも分かりにくい。

そんな中で、人と人のつながりとか、それがあって活動も出来る。関係が生まれて違う場所にまで足を延ばすようになる。名取でもつながりを作り直そうというか、再構築しようというのが基本的な考え方。

本来、お寺はそういうコミュニティーの機能を持っていたはずなんです。でも今、入りにくい。そう言う部分で、そうやって関係を再構築するか。ボランティアの看板は外にどんどん出している。今、1500人登録していると言っているが半分くらいは一般の方、他宗教の方。道を歩いていた人が、何をやっているんだろう、話を聞いてみようかとふらっと入ってこられる。そういう人をつかまえて、どうぞどうぞとやっている。コミュニティー機能は生まれてきていると思う。

 

浜田 門徒さんだけでなく他宗教であれ、ふらっと来てともに時間を過ごす。そう言うのが大事な時代。だからここは良い場所だと思って見ていたんです。間口が広い、いらっしゃいという感じのしつらえ。地域の中での大きな要として活動していただければ。今日のように介護の勉強をこの場所でさせていただけるのは、そう言う流れに沿っていると思います。

 

桂さん そういうのは本当にありがたいです。

 

Fin.

 

成田の里ケアマネージャー 千石愛さんとの対談から

浜田 千石さんは震災に遭われた時、被災した施設に居られました。自己紹介がてらその時のことを教えてください。

 

千石さん 特別養護老人ホーム成田の里でケアマネージャーをしています。法人名は東松島福祉会で本部は東松島のやもとにある、赤井の里です。今の成田の里の立ちあげの準備をやっているときに震災に遭いました。

ちょうど、成田の里の立ちあげにあたってのマニュアルなどを作成していました。赤井の里の2階で入所者、デイサービス利用者の方々といて、私はマニュアル作成の作業中でした。その時に大きな揺れが来ました。

 

ここには津波は来ないと思った

 

千石さん メンバーが3人いまして、1人は特別養護老人ホームと廊下をつなぐ扉を開放しました。逃げ道確保ということです。私はデイサービスの入り口を同じように開けていたのですが、立っていることができず、投げ出されるようにして倒れてしまいました。とにかくすごい揺れでした。落ちつくまで皆で床に這っていた状態です。揺れがおさまったら利用者さんの安否確認の手伝いをしていました。

その時に防災無線で大津波警報が出たという情報を得ました。外部との情報は非常電源でテレビを見ていました。外がどうなっているのかということを確認しました。赤井の里は海から4キロほど離れているので、まさかここまで水が来るとは思っていなかった。のんびり構えていたところはありました。でも1階にいる人を2階に上げようという判断をした時には、1階にじわじわと浸水が見られ、これはまずいとなりました。

エレベーターも使えないので、車いすを階段で上げたり、利用者さんを背負って移動しました。とりあえずその場で待機をしていました。

 

浜田 1階には重度の方もいた?その方を2階までお連れするのはすごく大変ですね。

 

千石さん おんぶも、一人が背負い、もう一人が背中を支えるというような形です。

 

浜田 昨日、成田の里での座談会で少しお聞きしたのですが、赤井の里は避難所ではないけれど地域の方がたくさん避難されてきたそうですね。いわば特別養護老人ホームという施設の機能と、地域の人たちと一緒に生活するという状況になったそうですね。

 

地域の方々200人との避難生活

 

千石さん 200人くらいの地域の方が来られました。盛り土の上にある鉄筋の建物だったので、ここなら安全だというふうに思われたのです。2階フロアは、利用者50人、デイサービス16人。そのほかに200人。

 

浜田 密集ですね。

 

千石さん そうです。

 

浜田 その方々との共同生活が続くわけですね。

 

千石さん 情報もないですからどこに避難して良いのかもわからないし、まわりが水だったので動くことも出来ない。2、3日はそのままでした。

 

浜田 食べ物はどうでした?

 

千石さん 3日分の備蓄はあります。それは利用者さんと職員の食事が3日分という意味です。定員50人のところに200人がいるわけですから到底、食べ物も足りない。

職員も1日1回のおにぎりやお粥しか出せない時もありました。ちょっとずつですが200人の方にも出しました。

 

浜田 車の中でお聞きしましたが、お粥は要らないという人がいて、でも食べないと次にいつ出せるか分からないという話しでしたね。

 

千石さん 私お粥は嫌いだから、普通のご飯をちょうだいと言われました。でも、今食べておかないと次が分からないので食べてくださいと手渡しました。

 

浜田 その状況はいつまで続きましたか?

 

千石さん 震災当日はまったく動けず、2日目は車がちょっと高いところに止めてあってそれだけが動いたので、食料買い出しに走りました。(陸前赤井から13キロほど内陸部の町)鹿島台まで行けばお店があいているのではないかという話しになって、車を走らせると数軒営業していたので、そこから食料を買ったのです。お店の人からも、いいからこれ持って行きなさいと、いただけたものもあって何回か買い出しに行きました。

4日目には、赤井の里に避難された地域の方々も、避難所の方が食料があるという情報が広まってきたので皆さん、避難所に移られました。地震が金曜日で4日目の月曜日にはもう残っている人はおられない状況でした。

 

浜田氏 その間、利用者の方々はどんな状況でした?

 

おむつ交換大作戦

 

千石さん 非常電源は金曜日の夜中に切れてしまいました。翌日、食料と一緒に若干の重油を手に入れることができましたので、それを足して発電機を回すのですが、燃料の量からすると4時間しか電気が使えない。1日1回30分だけ電気をつけようということになって、その間にトイレ誘導とおむつ交換をする計画を立てました。

その30分前から、おむつを交換する係、ライトで照らす係をきちんと分担して、30分以内に交換することを続けました。

私はお手伝いという形でしか入れなかったので、照明係として、少しでも手元が見えやすいように照らしていました。

 

浜田 介護士さんも施設に来れないから、同じ方が続けて勤務し皆さんくたくたになっていたと思いますが。

 

千石さん そうですね。水とかもあったし、自宅地域で被災している職員もいました。施設内のひと部屋を職員専用で雑魚寝をするスペースと決めまして、そこで寝て起きての繰り返しでした。職員が外部と行き来できるようになったのが3日目などでしたから、地震発生時に施設にいた職員がそのまま3日間は作業し続けました。

 

ポータブルトイレでのはいせつ

 

浜田 いろんなことが大変だったと思いますが、特に困ったことは何でした?

 

千石さん やはり200人の方が来られて、水も使えないので、ポータブルトイレを掃除してひとつの倉庫に設置し、皆がそこで排便。いっぱいになったら…。周囲は水でその辺に捨てると汚物が水に乗って後で大変です。人が入れるくらいの大きなバケツがあったので、ポータブルトイレの汚物はそこに捨てていました。それもぎりぎりになってまずいなあという時期に仮設トイレが設置され、そこでまた何とか対応できました。3台並んだポータブルトイレで見ず知らずの人同士がおしっこをしたりとか、そう言うこともありました。

 

浜田 寒かったりとかいろんなことがありましたでしょう。工夫などはありました?

 

千石さん 寒さについては、職員同士はくっついて毛布を巻いて暖を取ったりとか。利用者さんも仲良い方同士はひとつのベッドに2人で寝て、あったかいねえというようなことで休まれたりしていました。

 

浜田 とても大変な経験ですがそこから学んだことなどを。

 

千石さん 人間の生理的な反応。排泄。先ほど浜田先生から教えていただいた、ビニール袋の中に排泄する方法も、知識がないとその場に出くわした時に慌てる。水も流せないし溢れてくるし。となるので。そういう知識を一つでも持っていれば。

 

浜田 そうですね。食べることばかり考えてしまいますが、出す環境などを考えてあげないと、オシッコするのが嫌で水を飲まないなどの対応になってしまう。そこで体調が悪くなっていく方も多いので、食べることと、ちゃんと出すことを考えることが大切ですね。でも、それを伝えることがこちらもまた難しかった。

 

千石さん そうですね。あの時に知っていればもっと私自身も役に立てたなと思います。そういうことは結構あります。

 

浜田 出来ればそう言うことを記録しておくとか。その時は覚えていても長い目で見れば何も残らないこともあるので。私たちもこれがないからあれができないとか、そう言うことではなくてささやかなことでも記録しておくなどが大事だと思います。それらをきちんと記録しておくことを改めて思います。こんなことはもう絶対ないと思うのではなく、ささやかなことでも積み重ねていくことですね。また、昨日も少し話しになりましたが人とのつながりについて、お聞かせください。

 

千石さん 私自身、震災前は隣近所との行き来はあまりない方でした。震災があってから、私には2歳の子どもがいるものですから、地域の方が支援物資としてもらったバナナを、子どもにあげなさいと持っていていただいたりしました。うちの実家の方で水が出るから容器を持って来なさい。そうしたらチビちゃんの身体を拭いたり出来るでしょうなど声をかけていただいた。有難かった。震災は悲しいがそれによって、哀しいだけでなく人とのつながりが生まれた。今したしく行き来でいているので、きっかけになりました。

 

浜田 平素、何もないときには、自分で何でもできてしまう気になりますが、これはおごりです。人は自分だけでは生きられない。そんなことを踏まえて、近所が親しくなれるようなことになったら、大変なことばかりでなくなります。今はどんな状況ですか?

 

千石さん 赤井の里は定員50人ですが、70〜80人で生活しています。同じ地域で被災されて施設ごと流されてしまった施設もあり、そう言った施設を利用されていた方をひきうけている状況です。本来は個室ですが、そこに2人で入っておられる部屋もあります。デイサービスも6月には再開することができました。避難所におられる方でもデイサービスに来て暖かいお風呂に入っていただくということも出来ました。徐々に震災前と同じように戻ってきています。

 

浜田 千石さんと初めて出会ったのは京都でのオムツフィッター研修です。新潟で勤務されていた時代で、今回、私たちが仙台に来るにあたって、おうかがいできるところがあればと相談をした中で千石さんに手を挙げていただいた。今だけのことだけでなく、今後末永くお付き合いできたらと思いますし、大変な時に人同士がつながっていくためにも、大事なことを残していくことを私たちが協力できれば良いと思います。これからもよろしくお願いします。

 

Fin.

 

南三陸町馬場中山で大切なご縁をいただいた

また、南三陸町馬場中山地区で野菜を育てる「苗プロジェクト」を主宰されている蛯名隆三さんと合流し、苗プロジェクトの成果を見学するとともに、馬場中山の支援センターでも介護相談会を実施しました。現地の女性たちの明るい笑顔に、私たちが勇気をもらいました。

馬場中山生活センターでのはいせつケア相談会の様子
馬場中山生活センターでのはいせつケア相談会の様子

武田和典さんも同行。
武田和典さんも同行
転倒時に頭を守る帽子が好評だった
転倒時に頭を守る帽子も好評だった
もしもしフォンが人気だった
もしもしフォンが人気だった
皆でアイディア福祉用品を試用してみる機会になった
皆でアイディア福祉用品を試用してみる機会になった
小林貴代さんによる骨盤底筋群の強化運動
小林貴代さんによる、骨盤底筋群の強化運動
潟Aドヴァンシング基利枝子社長から、インナー等が寄贈された
潟Aドヴァンシングの基利枝子さんから、インナー等が寄贈された
馬場中山生活センターにも、救援物資の中に大人用紙おむつがあった。やはり、おむつは重要なアイテムだった。
馬場中山生活センターにも救援物資の中に大人用紙おむつがあった。やはりおむつは重要なアイテムだった。

 

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浜田きよ子プロフィール
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