HOME > 考える介護のために・対談シリーズ > 東北関東大震災 共同支援ネットワーク 武田和典さん
2011年10月、宮城県南三陸町の被災地を訪れました。共同支援ネットワークで支援活動を続けておられる武田和典さんにお会いし、胸の内を語っていただきました。 (訪問者:むつき庵、株式会社アドヴァンシング社長基利枝子さん、古賀惇一さん)
武田和典さん この事務所(共同支援ネットワーク石巻事務局/当時の所在地は、桃生町公民館樫崎分館・宮城県石巻市桃生町樫崎字高附2-4。新所在地は、〒986-0032 石巻市開成1-5開成公園グループホーム3・4号棟 石巻・開成のより処「あがらいん」Tel.0225-24-9910 Fax.0225-24-9230)はボランティアセンターになっていて、多い時はひと晩60人ほどがここに泊ったこともあります。今日は8人くらいでしょうか。
私たちがこういったところに拠点を構えて活動することによって、見えてきたことがあります。
介護の世界から被災地を見た時の課題というものがあります。避難所では認知症の方をきちんと受け止めることができないので、地域で生きることができるようにするとか、いろんなことがあります。我々は、利用者の方々を施設ではなく、地域社会に戻れるようにしたい。そういう提案を続けています。
震災直後の避難所とは急性期。そして回復期は今の仮設住宅。復興期は復興住宅であり恒久の住まいを作るのをどうするべきか。一日も早く回復期を終えるのが課題であり、直近の目標になっています。
仮設住宅でなくても、地域で生きられることが大事だと思うんですよ。実際に地域に住んでいる人もいる。
その場所にある家を借りて住む、地域で支え合うんです。
私たちは、これを4月の段階で実践していました。そして、それを石巻のモデルケースにしませんかと訴えていた。
この場所をお借りしたのは2011年4月1日から。それまでは施設の事務所に寝泊まりしたのです。でもそれではボランティアを受け入れられないのでなんとかここを借りられるようにと交渉したのです。
ここの何が良いかと言うと、隣が小学校で避難所だったこと。ここで何ができたかと言うと、ご近所付き合い。
当初、避難所の人には「生活」がなかったので、ここで生活を味わってもらった。この建物の台所で食事を作っていただいたり。例えば今日はボランティアの人数が少ないので、皆で鍋でもしようということだが、そういうことができるんです。
武田さん 私たちが最初に勘違いしたのは、ボランティアがお風呂を焚いて、避難生活をなさっている方々から喜んでもらって、施した自分たちも嬉しかったという声が上がる。
でも、ちょっと待てよ。僕らってそういう支援の仕方なのかな?という疑問が芽生えてくる。避難された方が、避難されている人のためにお風呂を焚く。してあげるんではなくて、避難された方々が、ご自身の生活の主宰者になっていく。
料理をしていただいた人からは、作った料理を我々におすそ分けしてもらう。僕らは、彼らから食事をもらった。人間関係をタテではなくてヨコにして見てみようということ。「ともに」と言う感覚でずっと支援は展開してきたんです。どうしてもタテの関係の人間関係は支援においてありがちなことで、それは依存を生み出すだけ。それはもしかすると権力、支配者、被支配者ですよね。
実は、私がずっとかかわってきた介護の施設がそうなんです。施設ケア、介護ってそうなりやすい。今日、浜田先生がおむつのお話しでもおっしゃっておられましたが、「誰のためのものか、何のためか」ということですよ。当事者にとって必要なことを展開するのが支援だと思うんです。
僕らがここで言っていたのは、施設の現場でやっていることへの問題提起です。多くは間違っているんです。介護関係は。施設は。だからここでもう一回、震災の支援と言うことから、我々の現場のケアのあり方まで、もう一回やり直すというか、そう言うことの中で、現場でやっていることが現地の支援から変わっていかないかなと思うのです。現地に来ることによって、介護施設なりに風穴が開かないかなと思う。難しいでしょうけれど。
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写真左:薪で沸かすお風呂。写真右:この日、センターに来られていたボランティアの方々。 |
武田さん 薪でお湯を沸かすと、お湯が柔らかくなるんですよ。ご存知でしたか?ゆっくりと温めるから。ガスは水を傷めるんです。例えばファーストウォーターか、スローウォーターかといわれる水の精製とも似ているかも知れませんね。
司会 今はもう、このお風呂を被災された方が使うことは?
武田さん もうないです。当時、印象的だったのは、ここでお風呂を焚いてくださった方は、避難所で居場所がなかったんです。ここにきて自分の役割を持っていただくという目的があった。
武田さん 僕らがこういう支援で何をしたかったのかというと、ここで、居場所と居心地と、役割を持ってほしかった。人として大事な居場所。避難所に居場所はないですよね。
実はこれは施設で取り組もうとしていたことです。ユニットケアでやろうとしていたこと。
人として大事なことには、介護施設内であっても被災地であっても変わりがないということですよね。人として大事なことは大事にしないといけない。当たり前のことなんですけれど。我々の現場で取り組んでもなかなかできないので、こういうことを機に。
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写真左:物資置き場となったフロア。写真右:紙おむつは確かに重要だった。 |
武田さん この建物が公民館だった時の講堂です。支援物資が積んであります。物資はかなり前から供給量を調節しています。支援物資って、流すと止まらなくなるんです。止まらなくなるから調達方法って難しいですね。
司会 ここは一時、避難所として人が住んでいたのですか?
武田さん ここでは住んでないです。最寄りだと、体育館で80人くらいが9月26日まで住んでおられたのが最終の方。
司会 たまった物資は徐々に、ニーズに合わせて出していくのですか?
武田さん あるものはそうします。でも、出し方も難しいんです。自治会がうまく機能しないところもある。我々は区長さんから必要なものを聞きだす。個別にやるとコミュニティーが形成できなくなるから。
武田さん 例えば、子どものプールが欲しいと言われたら、僕らは支援物資として頼むのは簡単です。でも、自分たちで工夫して、自分たちで作ろうという提案をします。僕らのボランティアは何もしないボランティア。差し上げるということよりも一緒に作ろうということを大事にしたい。
司会 それは、ボランティアする側に、時間も体力も、忍耐力も必要になる。
武田さん 僕らは、待つんです。「あなたたちから必要な事柄が出てくるまで、そばで待っているから、その時に声をかけてください」というスタンスになった。待つしかないと思った。ボランティアが難しいのは、こんな事例でも分かります。「骨折した人がいるから看護師さんに来てほしい」と言われたりする。ふつうは骨が折れたら病院に行くでしょう。分かったことは何かというと、お付き合いするしかないということ。
だから、血圧計を持って避難所で測ってみた。男性は皆、血圧が高かった。これは長く続かないだろうと思っていたら、案の定、男は活動が失速した。
そんなところに付き合わせていただいて思ったことは、ボランティアは1週間で来る時には自分の思いの方が強い。1週間で成果を持って帰りたい。
そう言えば、避難所でこんなことがありました。あるドクターが避難生活をしている小学生4年生の女の子の話を聞いていました。僕がその側にいてびっくりしたのは、そのドクターが、この子に直接薬を渡して帰っていったこと。あり得ないでしょう。一緒に行った看護師がびっくりしていた。僕らはちょっと引いて、本当に必要なことが見えるまで待とうと思った。避難所に医務室を作りました。そうしたらどうなったか。集団生活になじまない人は医務室に行って、そこから病院に行くなど、はじかれていく。集団になじめない人とどうかかわるのかは残っていく問題です。
司会 我々、外部の人間はどうしても、押し付けてしまうんです。
武田さん 被災地は、それに対してNoといえないんです。
浜田 善意で来た人にNoが言えない。でも、それが日常になってしまうと、それは生活とは呼べない状況。支援は難しい。
武田さん 歌津に入っている時も、自治会の指示を受けて動く。我々は勝手に動くことはしない。若い人には申し訳ないですが、今、介護施設に対して言っているのは、若い職員さんを仮設住宅のおばあちゃんたちに鍛えてもらうということです。ある程度関係ができてくるとそういうことも言える。
一番難しいのは自分のお金で、自分の時間で、限られた期間の中でこちらに来た人。その人が限られた中でなんとかしたいという時にでもその人に向かって、「何のために、誰のために来たのですか?」と問いかけていくこと。そうしなければ、立つ鳥跡を濁す。
浜田 今回、一緒に来たかった人も、何かできることがあればと一生懸命に言ってくださっていた。何が良いのか、見つけてくるのでちょっと待ってほしいという説明が難しかった。
武田さん 今回特に、報道の影響が強いでしょう。心にぐさっと入り込む情景を映しているので、ある意味、我々も心に傷を作った。被災者ではない人も傷を負った。感じるという力も、一方では言っているが、一方ではそれは傷です。
武田さん 僕らも初めてで、いろんな人が来られるとは聞いていましたが、大変でした。それで、よくやって当たり前。「有り難うございます」と「すみません」だけで乗り切るしかなかった。だから、誰のため、何のためのボランティアなのかという基本を動かせない。皆さんはここでのボランティアを終わって自宅に帰られる。でも、終わりは始まりですよね。「帰った後に、何をされるんですか?」「真の復興とは何か?」という問いを各自が自分の中に立てていただいて、考えていただきたい。
だから、帰られる人には、「始まりですね」と声をかけるんです。被災地に来られた方々は、地元ではヒーローになってしまうんです。新聞など含めて。だから社会が誤解を与えてしまうので、怖い。僕は個に立ちかえって考えていく必要があると思っています。
社会とか、組織とか、どうしても惑わすので。ご自分に立って考えることを大事にしてほしい。ここに来ることだけでなく、ここで学んだことを行動し続けることも大事。学んだことをどういうふうに生かすのか。できれば、どういう地域を作るのか、どういう暮らしを作るのか、モデルを作ってください。それを伝えていく役割もありますよ。
12月になったら、震災は、ゆく年くる年で語られてしまう。そして、仮設住宅で何人が亡くなったとか、そんな話しになってしまう。それから来年の3月11日に法要などがあって、その後はどんどんと忘却の彼方に押しやられてしまう。それをどうやって防ごうか。ということです。
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写真左:武田さんが寝ていた板の間のふとん。写真右:武田和典さん |
武田さん 僕の場合、家族は福島(武田氏は福島県出身)。仕事は岡山。でも活動自体は施設。家族からは、家族を岡山に呼びよせるべきだと言われた。3月15日に福島に帰ってびっくりした。最初味わった感じは、「ああ、見捨てられた」ということです。最初はあの風景の意味が分からなかった。「自分は何だ?」と自己の存在を問えば、自分の中の答えは東北だった。原発の映像をみて、もうダメだ思った。でも閉鎖されていないし。いろんな情報は常にじゃんけんの後出しで我々は知らされていない。
今回自分でも愕然としたのは、こういう状況になって、気がついたらこんなに原発が増えていたことについて、これほど無自覚だったのかということ。自分の無自覚に驚いた。福島にも驚いたが、日本中に原発があったことに驚いた。知っていたはずなのに、今まで気に留めなかったのか。ということがショックだった。
今日は2011年10月20日。その今日を生きていることを、これほど無自覚だったのかと思っています。
自分が何をするのか。若い人のために自分が何をするか。お困りの人に何をするか。その部分を強くしなければならない。
どういう生き方ができるのかは分からないが、自分として初めてとしてのトライかもしれないが、これをしないと悔いが残る。それをやるんだという、その意味での自分勝手さが必要なんでしょうね。
――Fin.
取材メモ:2011年10月、南三陸町、石巻市に於いて実施。司会/本サイトウェブマスター
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